安藤の掃溜め

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たまについての話 第ニ夜 たまの音楽性

大学1年のときに書いたたまについての話。今日は音楽と歌詞について。

 

 

 初めて『たま』の楽曲を聞いた時、多くの者はそこに懐かしさを見出すという。私はその『懐かしさ』にこそ『たま』の持つ抵抗の精神の本質があると考えるため、まずはその懐かしさの由来について、音楽的な側面から考察する。

 

 第一に、『たま』は日本国内のみならず、海外へ目を向けて比較しても、抜群に特異なサウンドを持つバンドである。それは『たま』が通常のドラムセットを用いず(パーカッションの石川はドラムが叩けないことを公言している)、バスドラムにシンバル、タンバリン、桶や鍋、そして仏具の鐘を組み合わせた独特なパーカッションセットを用いていることに由来する。その奇妙なパーカッションセットのみならず、足踏みオルガン、鍵盤ハーモニカ、リコーダー、カズー、口琴、果ては音の鳴るおもちゃ等、『たま』の使う楽器はおおよそ通常のバンドが使うとは思えないものばかりである。

 

 これらの楽器に共通するのは、全てが日常次元に存在するという点だ。足踏みオルガンや鍵盤ハーモニカ、リコーダーは学校用教材として広く音楽教育に用いられる。カズーや口琴の音色は、効果音として頻繁にTV等で聴くことができる。鍋や桶などはまさに日用品で、楽器ですらない。それらの奏でる音はどれも我々日本人の記憶のどこかに沁みついたもので、だからこそ『たま』のサウンドには懐かしさを感じるのだ。

 

 次に、楽典的な側面である。楽曲分析をしていると、『たま』の曲はほとんどが『A、B、A、B、C、A、B』という大ロンド形式に近い形式、あるいはサビ無し(総サビ)で書かれていることがわかる。これはメロディーの種類が過多にならない、非常に簡素で親しみやすい楽曲形式だ。『たま』は4人全員が作詞作曲をするために楽曲のジャンルに幅があり、滝本の曲は『A、B、サビ、A、B、サビ』という一般的なJ-POPの形式が多いという特徴があるものの、『イカ天』で演奏された5曲の内、『さよなら人類(柳原)』、『らんちう(知久)』、『ロシヤのパン(知久)』、『オゾンのダンス(柳原)』の4曲が『A、B、A、B、C、A、B』という形式で書かれている(残りの1曲『まちあわせ(石川)』は『A、B』の二部形式)。

 

 その単純な形式に加えて、『たま』の曲にはコードが4つ以下で書かれているものがかなりの数存在する。これは石川がギターのコードを最低限しか知らないために起こった事態だが、『牛小屋(柳原)』と『マンモウ開拓団(柳原)』はどちらも(飾りの不協和音などを含めなければ)ワンコードで作曲されている。ギタリストである知久の作曲は比較的複雑な進行をするが、それでも代表曲の『らんちう(知久)』のコードは4つしかない。

 この「単純さ」も当然、『たま』の持つ懐かしさの理由のひとつだ。単純構成とシンプルな和音進行は、曲を聞く者に童謡を連想させ、連鎖的に幼少期のぼんやりとした記憶を引き出す。更にその明快な地盤の上で奏でられるメロディーもどこか哀愁深い。

 

 『たま』の音楽性には、他のバンドの影響を受けているところが少ないといわれている。これは彼らが影響を受けたバンドやミュージシャンが、ビートルズを除けば無名の人物であることが大きい。だが「ビートルズに影響を受けている」と言っても、鍋と桶を使っている時点で通常のバンドとは全く違うサウンドになるのだ。事実、『たま』がビートルズを含む洋楽をカヴァーした音源などは幾つか残っているが、独自路線の訳詞と相まって、原曲とは全く違った趣になっている。

 

 

 『たま』の持つもう一つの特徴が歌詞の異様さである。

 日本の歌謡界において、歌詞は大衆的な共感性、そして現実感が重視されていることが多く、特にラブソングがヒットチャートを占める割合が高い(ただしこれは日本に限った話ではない)。一例として『さよなら人類』が4位を記録した1990年のヒット曲ランキングを見ると、1~10位までの内にラブソングが5曲、歌詞全体で非現実的な世界観を表現しているのは『さよなら人類』とヒット1位の『おどるポンポコリン(B.B.クィーンズ)』のみである。

 

 『たま』の歌詞はそのほぼ全てが幻想的で、非日常的だ。最大のヒットとなった『さよなら人類』の歌詞をみても、【今日人類がはじめて/木星についたよ】という印象的なフレーズだけではなく、【路地裏に月がおっこちて/犬の目玉は四角だよ】、【月の光にじゃまされて/あのこのかけらが見つからない】等、並ぶ言葉はまったく無秩序で、意味深ではあるが具体的な意味までは考察し切れない。

 

 『たま』の歌詞には統一性が無いように思われがちである。『たま』は4人のシンガーソングライターが集まったバンドであり、それぞれが確立した音楽性を持っている。そのため、曲ごとにかなり世界観や言語センスが異なるのだ。だがそれでも、読み込んでいけば『たま』特有の作詞の癖や傾向が見えて来る。

 

 まず、『たま』の歌詞には多くの衝撃的なフレーズや意味不明な個所がみられる。ほんの一例を挙げれば、

 

・【シベリアの風が空でこすれて/あの娘の畑に火がついた】(『はこにわ(柳原)』)

・【化石のとれそうな場所で/星空がきれいで/ぼくは君の首を/そっとしめたくなる】

 (『星を食べる(滝本)』)

・【ずぼんにしみついた/さばの缶詰の匂いが大嫌いで/みんなの待つ/公園を爆破した】

 (『きみしかいない(知久)』)

・【四角い魚を梱包すれば/ニューギニアの子供の喉が渇きます】(『東京パピー(石川)』)

 

 これらのフレーズを見るとわかるように、『たま』の歌詞のほとんどは「○○なので○○」「○○したから○○」等の短文で構成されていて、単語と単語の繋がりがはっきりしている。つまり、文法がしっかりしていて読みやすいのである。しかし、その文法の中で使用される単語や行為がどうにも突飛すぎるのだ。空気の摩擦で火事が起こるのはまだしも、星空がきれいだからといって、目の前のひとの首を絞めたくはならない。サバの缶詰の匂いが嫌いでも、公園を爆破などしない。魚を梱包したら子供の喉が渇く原理がわからないし、そもそも四角い魚とは何なのか。この突拍子もない単語や行為同士を繋ぐ明瞭な文法というアンバランスさは、まるで知りたての単語を使いたがる幼児のお喋りのようである。

 

 次に、『たま』の歌詞には具体名詞が多く登場する。「オリオンビール(『オリオンビールの唄(柳原』)」、「S&Bゴールデンカレー(『あたまのふくれたこどもたち(知久)』)」、「ペリカンせっけん(『ウララ(石川)』)」等は実際の商品名をそのまま歌詞に出した例だが、この他にも、『たま』は頻繁に地名や名詞を歌詞に用いている。

 

・【月は練馬区の方で笛吹いてた】(『ウララ』)

・【夕暮れ時のさびしさには/牛乳がよく似合います】(『夕暮れ時のさびしさに(知久)』)

・【気がつくとボクらみんな/8ミリ映写機のフィルムの中】(『夏の前日(滝本)』)

・【ヘビー級のチャンピオンがそれをみつけては/サンドバッグがわりに殴ってる】

 (『どんぶらこ(柳原)』)

 

 練馬区、牛乳、8ミリ映写機、ヘビー級のチャンピオン。これらの名詞は現実的で、1990年という時代背景において身近なものだった。その身近なものを詩中に登場させると、具体的なイメージが持ちやすくなり、歌詞の世界はより自分の近くに感じられる。「月が笛を吹いていた」というだけではただの夢物語の情景描写だが、「月が『練馬区のほうで』笛を吹いていた」となると、聞いた者に「練馬区」の街並みのイメージを想起させ、より具象性が増すのである。

 

 いくつかのインタビューで、『たま』のメンバーは「歌詞には意味がない」と語っている。それは半分事実だろう。『たま』は社会問題や現実世界を歌わない。『たま』の歌う世界は精神的、内面的な世界だ。しかしそれはまったくの夢物語というわけではなく、唐突に「練馬区」や「サバの缶詰」や「ペリカン石鹸」などが登場して、なぜか妙に現実臭い。そしてそのアンバランスさに由来して、感覚的な、正体の掴めない恐怖感が漂う。

 これは幼い子供が、自分の空想の中にのみに存在する内的な世界と、日々新しく知る現実の世界の間でふわふわと漂っている様子を思わせる。自我を持ちつつ、無知故の突飛な発想と、理由のない恐怖のある幼い子の見る世界。その幼少時代の独特な感覚を誰もが一度は持った事があるからこそ、それを想起させる『たま』の詩は懐かしさがあるのだ。

 

 『たま』の4人のメンバーの作る内で、最もアンバランスさと恐怖感が現れているのが知久の楽曲である。知久は両親が宗教へ傾倒していたことから、早くに家を出てストリートミュージシャンとして活動を始めた。知久は歌詞のテーマを「幼少期の記憶」としている事が多く、の歌詞の多くには「さびしい」「かなしい」「きらい」「死」というマイナスのワード、そして様々な「こども」が登場する。アルバム『ひるね』に収録された『かなしいずぼん(知久)』は中間部に、【日曜の夜は外に出たくない/死体になりたくない】【日曜の夜は泳げない/魚になりたくない】と歌われる部分があり(この部分の詞は歌詞カードに書かれていない)、知久が幼少期に感じていた宗教や死への恐怖感が抽象的に表現されている。

 

(第三夜に続く)