安藤の掃溜め

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たまについての話 第一夜 たまの歴史

※大学一年生のときに書いたレポートのりかばりぃです。

 

三宅裕司いかすバンド天国(以下イカ天)』の放送が開始された1989年は、正月気分も冷めやらぬ内の昭和天皇崩御、続く平成への改号で、世の中の全体に変化への戸惑いがある年だった。徐々に崩壊を始めるバブル経済、凶悪犯罪の発生や自然災害。後に重大な事件へと発展する新興宗教の暴走や、歌謡界を代表する歌姫、美空ひばりの死。まさに日本はバブル崩壊後の『失われた20年』へ向かう真っ只中にあり、漠然とした不安が日本社会全体を包んでいた。

 

 その暗い時代において、『イカ天』の巻き起こしたバンドブームは、確実にひとつの希望であった。次々に登場する若者たちの姿はまさに日本の未来の姿そのものであり、彼らの奏でる音楽は、それまでの日本のポピュラー音楽シーンには見られないものも数多くあり。『イカ天』は1990年末の放送終了までに何十ものバンドをメジャーデビューへ導き、『BEGIN』や『人間椅子』、『カブキロックス』、『マルコシアス・バンプ』等といった俗に言う『イカ天バンド』たちは、それぞれに一時代を築いて行った。

 さて、その個性的なバンドたちの中でも一際異才を放ち、後に大ブームを巻き起こしたバンド『たま』が番組に登場したのは、1989年11月のことである。冴えない服装をした、挙動不審で、言動もやや怪しい四人組。それが『イカ天』初登場時の『たま』だった。演奏が始まる前に、このバンドが大ヒットする事を予想できた者は、果たしてどれ程いたのだろう。

 

 『たま』はその独特なスタイルと風貌、一般には代表曲がひとつしかない事からから「コミックバンド」や「一発屋」とも称される。だが、楽曲と歌詞を分析し、その特異性と日本のサブカルチャー特有の気質を照らし合わせれば、なぜ『たま』がヒットしたのか、そしてなぜ、その大衆的人気が長期間続かなかったのかが明らかになる。

 

 『たま』の歴史は1981年頃、当時19歳だった石川浩司(1961- パーカッション。以下石川)が実家を出て、高円寺のアパートに入居した時から動き出す。長渕剛吉田拓郎などの力強い音楽が世間で流行する中、石川の住むアパートの一室は、若きアングラ系アーティストの溜まり場となっていた。多い時には四畳半に10人以上が共同生活をし、それぞれに作曲をしたり、麻雀をしたりする特異な空間で、石川は当時16歳の知久寿焼(1965- ギター。以下知久)と出会う。しばらくしてライブハウスで知り合った柳原陽一郎(1962- キーボード。以下柳原)が「麻雀をやるために」その部屋を訪れ、彼らは顔見知りとなる。

 

 そして1984年、アングラ系ミュージシャンのライブシリーズ『地下生活者の夜』第25回公演に際し、石川、知久、柳原の3人は一夜限りのバンドのつもりで『かき揚げ丼』を結成。ライブ後に「この3人でもう少しやってみよう」とバンド名を『たま』とし、以降19年間続く『たま』としての活動を開始する。なお、この3人の時代に全国ツアーもしている。

 結成から2年後の1986年、柳原が解散を口にしたことで、知久がベーシストを募集。唯一の応募者であった滝本晃司(1961- ベース。以下滝本)が加入し、『たま』は4人組のバンドとなる。なおこのとき、滝本はベースの経験が皆無であった。

 その後、『たま』は若いバンドの登竜門的存在であった吉祥寺のライブハウス『曼荼羅』(現在は4つの店舗に分かれているが、当時は吉祥寺の一店舗のみ)で月例会と称する定期ライブを開始。ナゴムレコード関連のイベントにも多数出演するようになり、初のインディーズシングル『でんご』をナゴムレコードから発売。この頃にはライブの動員数は100人を超えていた。

 

 そして1989年、『たま』は当時大人気だった深夜番組、『三宅裕司いかすバンド天国』に出演。この出演に関して、当初、『たま』のメンバーは「安易に流行に乗るのはいかがなものか」と消極的であったのだが、マネージャーに勝手にデモテープを送られるという形で出演を決定、5週勝ち抜きでグランドイカ天キングとなる。これが『たま』にとっての大きな転換期であった。

 

 1990年、シングル『さよなら人類/らんちう』で日本クラウンからメジャーデビュー。初登場1位、年間第4位を記録する。その年には紅白歌合戦にも出場。翌年にはイギリスとフランスでレコーディングをし、CM出演やテレビドラマへの楽曲提供をする。その後インディーズレーベル有限会社たま企画室(現地球レコード)を立ち上げ、活動は海外公演にまで広がる。

 

 1995年末に柳原が脱退。以降は3ピースのバンドとして活動を継続。1996年にはTVアニメ『ちびまる子ちゃん』EDに『あっけにとられた時のうた』を提供し、メジャーレーベルに復帰する。2001年にはNHKおかあさんといっしょ』に楽曲提供。

 

 2003年、解散を発表。この解散は人気の低迷からではなく、ソロ活動への専念と「やれることは全てやった」とのメンバー共通の思いからであった。10月のラストライブの最後には、石川がトレードマークのランニングを脱ぐ演出がとられる。2017年1月現在でも、柳原を含む4人はミュージシャンとしての活動を継続しており、解散後も何度か知久、石川、滝本3人での『たま』名義のライブを行っている。

 

第二夜では、これらを踏まえた上でたまのサウンドについて解説する。